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解釈とたまに考察と感想

【解釈】日向創の人格と才能

※本記事にはダンガンロンパシリーズの重大なネタバレが含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日向くんの誕生日には間に合っていると思いたい。お誕生日おめでとう🎉🎊今回は彼の人格を主に解釈しています。解釈違いが苦手な方以外はぜひご覧下さい。

 

 

1.はじめに

まず、日向創の解釈をするにあたっての前提から説明します。

作中で、彼は人格が変わる(つくられる)時があります。その理由は虚無状態になる時、手術等で物理的な理由がある時などさまざまですが、大まかに言えば「絶望した時」です。

そこで、本記事では彼の人格を3種類+派生2種に分けて解釈していきます。そのうえで、それぞれの人格に「人格」と「才能」というバロメーターのようなものを付けたいと思います。「才能」は文字通りどれくらい「超高校級」の才能を持っているかを表します。一般的な人々は0~20、「超高校級」は大体20~80で、80以上になるとその中でも強い方に分類されるようなイメージです。数値上限は最低(といっても普通)が0、最高点は特に設けておりません。「人格」は日向創の人格がどれだけ残っているかを表します。普通最低が0、最高は100で、オリジナルの人格である「日向創」が持つ人格数値を100とします。基本的これは減っていく数値です。またあくまで日向創の人格なので、品格の良さや倫理観とは関係ありません。

そして特殊バロメーターとして、才能を手に入れるまでの日向創の人格、つまりカムクラ化するまでの人格には「渇望」というものを付けます。文字通り、才能への渇望、執着を表します。こちらも最低が0、最高は100です。基本的にこの2+1つのバロメーターに焦点を当てて解釈していきますが、この2つ以外の違いももちろんあります。

 

 

2.人格解釈

ここでは、前述した3種類の人格+2種の派生人格を解釈します。

 

①日向創

才能:0 人格:100 渇望:50

本来の日向創の人格で、人格数値も彼の人格が基準となっています。一言で言えば「オリジナル」です。スーダン本編の虚無状態になる前と、おそらく自分に才能が無いと分かるまで、つまり幼少期はこの人格だったと思われます。

ファンや狛枝の言うところの相談窓口適性のようなものがあり、彼の持つ性格の中では最も品格に優れています。才能こそ0ですが、日向創のあの人格がそのまま残っているので普通に生きるのであればこの状態が1番望ましいです。

しかし彼の才能に対する執着は(この時点で)一般人の割にはすさまじく、才能を望み、自分に何らかの才能があると信じて疑っておらず、後にそれが彼のことを苦しめます。

 

また、予備学科も含め、彼がなぜここまで才能に執着しているのかも考察のしどころです。まず、彼の描写を見る限り、希望ヶ峰に入学するまでに周りに才能を持っている人がいるわけでもなければ、親族に強制されている(ex:新月渚)ようなこともありません。あったとしても、同い年くらいの才能人に劣等感を抱く程度のものだったのでしょう。

環境に理由が見当たらない以上、ここからは日向創の内面の問題となってきます。まず、日向創の渇望数値が50である以上「自分に才能が無い」という悩みの壁にぶち当たる事は避けられようがなく、確定した未来です。(「なぜ渇望数値が50なのか?」という問いは一旦置いておきます)内面といっても性格や感情そのものではなく、壁に対する対応の仕方に彼が才能を渇望した理由があります。

「才能が無いのだがどうすればいいか?」という問いに対する答えを調べた結果、大まかに「才能がないからと悲観するのは間違いである」「好きなものを探せ」という2つがありました。(著名な方の答えも含んでいるのであまり頓珍漢な答えではないと思います)

1つ目のものは、「自分に才能があるのか?」「才能がなければ生きる価値はあるのか?」という問い立てがそもそも間違っている、ということです。作中の彼は、その2つの問をどちらも立ててしまったからこそ予備学科、カムクライズルという人格を生み出しています。アニメ3で日向はこの事を七海に言われていますが、渇望数値が大きすぎるせいでそれを聞き入れたうえでカムクラプロジェクトを受けてしまいました。七海の助言を聞いて、人格数値の低い予備学科は壁を乗り越えるのではなく、そもそもその壁を無くそうとしてしまったのです。

また2つ目は1つ目の追加事項でもあるのですが、「才能が無いから死ぬ」のではなく「好きなもの、人のために生きる」という考え方を推奨したものです。ここから私は、日向創が才能に執着し、カムクラ化までしてしまった理由は彼の無趣味さにもあると考えています。

よく考えてみれば、彼は何か趣味を持っている描写がありません。スポーツが好きなわけでもなければ、何か得意な科目があるわけでもありません。ここで、問題は「なぜ無趣味なのか?」という事にスイッチングします。

そこで出てくるのが、予備学科の日向と七海です。先程彼は無趣味だと記した時に、あの一緒にゲームをしているシーンが頭を過ぎった方も少なくは無いでしょう。ですが、彼にとってゲームは趣味ではないのです。その理由に、すぐ隣にいた七海があります。

何度も言うように、日向創は才能に執着しています。その彼と一緒にゲームをしているのは「超高校級のゲーマー」です。ここで、彼が超高校級のゲーマーを追い越すためにゲームをしているとは考えられないでしょうか。そして、ほかの分野でもそんな風にしていたとは考えられないでしょうか。つまり、彼は幼少期から無意識下で「自分の才能を探すため」に行動していたということです。また予備学科の時の彼は、「七海は超高校級のゲーマーだから」と彼女にゲームで勝つことを諦めていますが、それも勝つことで自分の才能を認めようとしていたオリジナルの日向創の頃があったからだとも言えるのではないでしょうか。

ここで、

何か行動(ex:ゲーム)をする→「超高校級」レベルにはできない→努力する→それでもできない→新しい行動に移す

という負のスパイラルが生じています。「何か行動を起こす」という事は生きていれば誰でも行うので、このスパイラルが発生する以上彼の渇望数値は50になってしまうのです(ここで「なぜ渇望数値が50なのか?」という問いが解決します)例えて言うならプロが多い格闘ゲームであまり勝てず、諦めて別のゲームに移ってしまうといったところです。一般的な人々にとってはよくあることかもしれませんが、彼にとって、ここで言う「行動」は、砂漠から砂金を探すような「作業」だったのでしょう。おそらく彼はいわゆる「ガチ勢」だったのです。そして、努力することで得られるもの以上のものを求めてしまいました。これが、彼が才能に執着してしまった理由です。

 

 

②予備学科

才能:0 人格:x(0<x<100) 渇望:y(50<y≦100)

才能が無いと知ってからカムクラ化手術を受けるまでや、スーダン本編での虚無状態の人格になります。やはり注目するべき点は人格と渇望の数値です。かなり幅が広いのでこのように設定しました。もちろん、カムクラ化手術を受けるまで人格数値が下がり続けているという意味です。

ただし、人格数値が0になったらもはや人間とは言えない状態になるので0にはならないようになっています。また、人格数値が下がるにつれて渇望数値が高まります。どちらかと言えば、アニメ3では「日向創」から「予備学科」という人格に変わったというよりも、自分が才能を持たないと知ったことによって人格が下がったり渇望が増したりするようになったといってもいいかもしれません。

また、カムクラプロジェクトを受ける直前の彼のバロメーターは、才能:0、人格:ほぼ0、渇望:100です。これはスーダンでの虚無状態と同じ数値です。このバロメーター数値になることが、どんな人間でもカムクラプロジェクトを受けるようになる条件です。このバロメーターにならないと手術を受けないからこそ、スーダン本編の日向創はなぜ自分がカムクラプロジェクトを受けたのかわからなかったのです。才能以外のバロメーターがかなり数値の動く人格であることから、カムクラの次に普通の世界で生きることに向いておらず、最も人間的に不安定な人格です。

不安定であるからこそ、この「予備学科」の状態で希望ヶ峰学園に入学するのは極めて危険です。人格や渇望の数値が動くのは、周りの才能人への嫉妬や劣等感、自責から来るものだからです。実際、もし希望ヶ峰学園に入学していなかったらその2つの数値は動きませんし、もちろんカムクラプロジェクトを受けることもなかったのです。ですがこの仮定は、渇望数値の大きさにより無効化されてしまいます。

 

そして、ここではおまけ(?)として彼の家庭環境についても考察します。考察材料は日向創と予備学科の人格の時です。事実として挙げられることは、

・予備学科に入る事を決めている

→莫大な入学金が必要、つまりある程度裕福な家庭(だった)

・カムクラプロジェクト決行

→プロジェクトを受けることには保護者に放置されていたor亡くなっていた

の2つです。2つ目は多少の推察が入っていますが、保護者の同意なしにプロジェクトを行うことはまず無いと希望ヶ峰学園を信じました。(ここが信用しきれないあたり…)

とにかく、上記2つの事から希望ヶ峰学園入学~カムクラプロジェクト決行までに家庭内で何かあったという事には間違いありません。両親が亡くなった可能性や、狛枝のようにそもそも幼少期に両親が亡くなっていて莫大な遺産を持っていたなどの可能性も一応ありますが、考察しようがないのでここでは両親から放置されるようになった理由を考えていきます。

理由を想像する分にはかなり容易ですが、特定は困難です。可能性としては両親の離婚や不仲、才能が無い子供に対する育児放棄などです。またスーダン本編の日向創の発言から家族の事がほぼ判明しないことから、元々の家庭環境があまり良くなかったか、父親か母親が何らかの都合であまり家にいなかったのだろうかとも推察できます。また、家庭を含めた彼を取り巻く環境は、「才能や環境に恵まれ、努力をすれば叶う世界に住んでいた」と評価されている赤松楓と対極にあるとも考えられます。

決して環境のせいで才能に執着するようになったというわけではありませんが、特に予備学科の時の環境は彼の人格・渇望数値は彼の家庭環境に大きく影響しているという事が大いに考えられます。

 

 ③カムクライズル

才能:100 人格:0

アニメ3やスーダン本編に登場するカムクライズルの人格です。才能が付与され人格が消去されたことにより、渇望のバロメーターが無くなっています。予備学科がカムクラプロジェクトを受けて人格を完全消去(ほぼ0→0)し、才能が植え付けられることによって構成される、いわば人工的な人格です。予備学科の渇望が100%才能に還元され、ここで初めて才能、それも「超高校級の希望」という名の万能性を持つ才能を手に入れています。しかし人格が0になっているので、いい意味でも悪い意味でも合理的な判断しかできません。生徒会や七海を殺すことに反対しないのも、江ノ島盾子の計画の下準備をするにあたって最も合理的だと判断したからです。

ここから、カムクラは当然ですが江ノ島と同じ「超分析力」を持っていると分かります。もちろん、アニメ3内でこそほとんどこの才能が使われていると思われますが、他にも様々な才能が搭載されています。それでも彼が江ノ島に賛同しないのは、彼が人格を持っておらず、面白い・楽しいといった様々な感情が欠如しているからです。感情、というよりは衝動(苗木誠でいう無印1章)によって突き動かされる心がなければ、本当の意味では超高校級の希望にも絶望にもなれないのです。カムクライズルの「超高校級の希望」は、あくまで様々な才能を持つだけのものなのです。

同じ「超高校級の希望」である苗木誠との違いはそこです。いくら素晴らしい才能を持っていても、それを行使する「動機」が無ければ全く意味がありません。苗木誠にとっての動機はコロシアイの犠牲者の発生に伴う黒幕への怒りという感情ですが、カムクラに感情はありません。なので、彼が才能を行使する動機はあくまで感情を伴わず、「江ノ島盾子の計画に協力する」という与えられた目的の達成が動機です。感情的になった人間ほど止めにくい者はいません。感情が苗木を超高校級の希望たらしめたのとは反対に、感情を持たないカムクラは感情的な理由で才能を行使することがなく、アニメ3時点では江ノ島盾子の犬に成り下がるしか無いのです。

しかし、カムクライズルは結局1度も衝動を受けなかったのかというと、そうではありません。彼が衝動を受けたのは、七海千秋がおしおきされた時です。ただ、衝動を受けたその瞬間は、彼はまだ「なぜ自分が涙を流しているのか?」という事はまだ理解していません。のちのち理解したということが予想されます。また、彼は偶然にも苗木誠と同じ、大切な人を亡くした時に彼は初めて涙を流しました。だからこそ七海のおしおき以降は自らの意思で動き、最後には77期生と共にジャバウォック島に向かったのです。

 

④覚醒

才能: 80以上 人格:100

簡単に言えば、日向創とカムクライズルのいい所取りをした派生人格です。プログラム世界だからこそ構築可能な人格と言えるでしょう。スーダン2の時点で明確に現れている人格の統合が完成しています。また、七海の「未来が無いのなら創ればいい」という提案の答えにもなっています。今まで出てきた日向創の人格、七海、苗木や77期生の誰か一人でも欠けたら存在しない人格です。解釈材料が少ないので、才能数値は「規格外」である80以上にしました。アルターエゴとはいえ江ノ島盾子を破っているので、このくらいはあって当然だと思います。本編で育んだ人との協力、絆による「衝動」、そして人格数値の復帰による感情の付与によって初めて「超高校級の希望」が本来の力を発揮しています。

数値を見て分かるように、日向創が持つ人格の中では最強の存在です。ただし見た目や大きすぎる才能・人格数値にも現れているように、予備学科とは違った意味でとても不安定です。不安定というのは、元の日向には才能を受け入れられるだけの器が無く(だからこそカムクラプロジェクトを受けた)、それなのに才能が付与されているので、延々と器から水が流れ出ているようなイメージです。おそらく彼がプログラム世界外で生きていくことは不可能です。だからこそ人格「オッドアイ」が構築されたとも言えます。

 

オッドアイ

才能:50~80 人格:50

アニメ3の終盤や、おそらくスーダンのエピローグの時の人格です。覚醒に予備学科の人格を混ぜたことにより、人格が人間的に整理され、覚醒より安定した人格です(ただし弱体化はしている)。オリジナルである日向創の人格はもう二度と戻らないため、この人格を作ることが彼ができることの中では最善策とも言えます。また才能が50~80なのは判断材料が少なく特定が不可能だからです。最高点が80になっているのは覚醒のところで記載したものと同じ理由です。

また、ここはもはや二次創作の範疇ですが、もしかしたら彼はより人格を人間的に安定させるために、才能が段々80から50になっていくのではないか?とも考えられます。1度絶望を背負ってしまえば後のことは苗木などの未来機関が行い、絶望と戦うのはあくまで彼らなので、彼が「超高校級の希望」レベルの才能を持つ必要が無いからです。

さらにスーダンのエピローグが本編のコロシアイからどれだけ時間が経っているのか分からないので明言しづらいのですが、プログラム世界から目覚めたらこの人格だったのではなく、カムクラの才能で統合させたものだと思われます。統合やプログラム世界での事実を乗り越えたりしない限りは、「俺は日向創として生きていく」なんて言えないからです。他の人格と違って欠点が無く、希望(や絶望)を背負えるだけの器(才能)と一定の人格を持っているので、彼は自分たちの罪を償い、希望を助けるために絶望を背負って生きていきます。

 

3.人格の対比

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※変動のあるものは最も極端な数値(予備学科なら才能0、人格ほぼ0)にしています

 

この5つの人格を図として表すと、上記のようになります。青いエリアが才能を持たない一般的な人間が理想とする人間のエリアで、赤いエリアが日向創が理想としたエリアです。オッドアイがほぼ完璧な人格統合であると同時に、これが青のエリアにも赤のエリアにも入っていない事をとても悲しく思います。

そして、ここから日向創とカムクライズルが人間的に正反対であるということが分かります。スーダン本編時はこの2つの人格しか明らかになっていなかったので、プレイヤーはもちろん、日向自身もなぜ自分がカムクラプロジェクトを受けたのか理解できなかったのです。人格が100の日向創は、人格が0の予備学科とカムクライズルの事を理解できません。

 

また、見ての通りですがもしカムクラに人格を付与すれば正真正銘の「超高校級の希望」になり得ます。そして、カムクライズルは前述したように七海千秋のおしおきによって感情、悲しみが芽生えかけていました。もしここで、苗木誠と同じように「江ノ島盾子に対する怒り」が芽生えたとしたらどうでしょうか?喜怒哀楽と並べた時に、怒りは最も強い感情です。もしあの時怒りの感情を抱いていたとしたら、彼はたとえ彼女がシェルター内にいたとしても、本気で江ノ島盾子を殺しに行っていたでしょう。そしてそれは、自ら人格数値を0から増やしていくことで、自ら「超高校級の希望」の名を掴み取りに行くということです。その世界線では、おそらく「超高校級の希望」はカムクライズル≒日向創、ただ1人でしょう。

ですが、残念ながらこの仮定は何度世界をやり直したとしても叶うことはありません。カムクライズルは感情に対する理解がほとんど無いからです。足し算が分からないから掛け算が分からないように、自分が流した涙の理由やその現象の名前も分からないから怒りのような強すぎる感情を持てないのです。逆に言えば、もし江ノ島盾子の邪魔が入らなかったら、希望ヶ峰学園はまず初めにカムクライズルに「感情」という概念を後天的に身につけさせようとしたのではないかとも考えられます。その時の学園の力では、超高校級になるための感情は手術では付与できなかったのです。

 

そして、それぞれの人格を構築するための条件は

予備学科:「自分には才能が無い」と自覚する

カムクライズル:人格数値をほぼ0、渇望数値を100にする(日向の場合、予備学科化して精神的に弱る)

覚醒:カムクラ(才能数値100、人格数値0の人間)がプログラム世界内で予備学科状態になり、「未来を創る」という発想を得る

オッドアイ:プログラム世界内で覚醒状態を経たカムクラが目覚める

となっています。何が言いたいかというと、日向創はどんなことが起きても必ずこの順番に人格が構築され、どの人格が欠けても最終地点である「オッドアイ」にはたどり着かないのです。そして、覚醒やオッドアイは人格の統合がなされて1つのものになっているのであって、日向創は決して多重人格ではないのです。